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ダンスミュージックはダンスのBGMとして機能する音楽、または踊るための音楽を指します。
単独の音楽ジャンルを指す概念ではなく、複数の音楽ジャンルを総合する概念と見なされています。
ダンスミュージック詳細(wikiペディア)
テレビCMや番組で曲が使用されていたりして、一般的にも認知度の高いと思われる、60年〜80年代の期間に活躍した代表的なアーティストの楽曲をセレクトしご紹介します。
主にyoutube公式で配信されているもので、時代感が伝わる様にリリース順、12inch or Discoバージョン・オリジナルに近い演奏でLive映像が有れば優先し、代表的なバラードのリリースが有るアーティストはこちらも含めます。
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※リリース年、アーティスト情報は主にWikipediaを参考・引用しております。
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60年〜80年代レジェンドアーティスト編2️⃣
Earth. Wind & Fire 🇺🇸
The Jackson 5 🇺🇸
The Jacksons 🇺🇸
Michael Jackson 🇺🇸
Jermaine Jackson 🇺🇸
KC & The Sunshine Band 🇺🇸
1973年にフロリダ州で、スタジオ・ミュージシャンとレコードエンジニアを中心に結成され、1974年にレコード・デビューし初めにイギリスで人気が出て、翌年にアメリカに波及しました。
破天荒に明るいダンス・サウンドが特徴で、「ブロウ・ユア・ホイッスル」(1973)「ファンキー・ホーン」(1973)が彼らの出発点になった。サンシャイン・バンドのデモに取り組んでいる間に、ジョージ・マクレエの曲「ロックユアベイビー」が、KCによって書かれ、1974年半ばに多くの国でヒットした。
ボーカルをフィーチャーしたバンドの「Queen of Clubs」(1974)は英国でヒットし、1975年にはツアーを実施している。
KCと他のバンドメンバーは、フロリダ南東部で最も強力なFMポップステーションの1つであるWHYI-FMに頻繁にゲストとして出演し、音楽の震源地の1つでディスコのジャンルが台頭している間、バンドに重要な故郷のPRの場を与えた。
1975年にセルフタイトルのセカンドアルバム『KCとサンシャインバンド』がリリースされたことで、グループの最初のメジャーな米国ヒット曲「ゲット・ダウン・トゥナイト」が生まれた。4月にR&Bチャートを上昇し、8月にBillboard Hot100で1位になった。「ザッツザウェイ(アイライクイット)」も1975年11月にナンバーワンヒットになり、グループは1976年のグラミー賞で好成績を収めた。
1976年のアルバムは、「I’m Your Boogie Man」と「(Shake、Shake、Shake)ShakeYourBooty」の2つのナンバーワンシングルを生み出し、別なヒット曲「Keep It Comin’ Love」は2位に達した。
彼らの成功は1979年からの5枚目のアルバムまで続き、ディスコ・ブームに乗って1970年台後半に全盛を誇り、5曲がビルボード1位を獲得した。
Get Down Tonight(1975)
That The Way(1975)
I’m Your Boogie Man(1976)
Shake Your Booty(1976)
Give It Up(1982)
Kool & The Gang 🇺🇸
1964年しているアメリカ合衆国ニュージャージー州出身のファンク・バンド。
50年以上のキャリアを誇る、有名ソウルグループの一組。
1964年、ニュージャージー州にて、ベース奏者ロバート・”クール”・ベル、サクソフォーン奏者ロナルド・ベル兄弟(ムスリム・ネームの姓はベイヤン)を中心に結成。1969年に「クール&ザ・ギャング」と改名しシングルデビュー。
結成当初はリード・ヴォーカルはおらず、ファンキーなインスト曲を中心に演奏していた。デビュー後しばらくはヒットに恵まれなかったが、「Funky Stuff 」(1973)、Billboard誌が29位、(以下Billboard誌のチャート最高位)が初のTop50入りを果たしブレイク。
1974年「Jungle Boogie」(1974)、22週に渡りチャート圏内に入り最高4位まで上がり、初のTOP10ヒットとなった。続く「Hollywood Swinging」(1974)、(Hot100 6位)も大ヒットし、これらのヒットを契機に人気ファンクバンドとなりました。
1977年には大ヒット映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックに曲「Open Sesame」が収録された。
1979年にジェームス・”JT”・テイラーが加入し、クロスオーバーのデオダート制作の1980年「Ladies Night」(Hot100 最高8位、Black 3週連続1位)、「Too Hot」(Hot100 最高5位、Black3位)など全米ポップ・チャートでもヒットを連発した。
1980年暮れに彼ら最大のヒットとなる代表曲「Celebration」(Hot100 2週連続1位、81年年間総合6位)を発表し、81年のソウル・チャートで6週連続1位を獲得するなどで、70年~80年にディスコヒットを連発しています。
Jungle Biggie(1973)
Summer Madness(1974)
Hip Hopのサンプリングソースに多数使用されているインストサーマーアンセム。
Gang Starr – DJ Premier in Deep Concentration(1989)
DJ Jazzy Jeff & the Fresh Prince – Summertime(1991)
Ice Cube – You Know How We Do It(1993)
Jhené Aiko – Summer 2020(2020)等
Celebration(1980)
Get Down On It(1981)
Be My Lady(1981)
Freah(1983)
Joanna(1984)
Marvin Gaye 🇺🇸
1958年〜1984年にプロとして音楽活動をしていた、アメリカ合衆国のミュージシャン、作曲家。
首都ワシントンD.C.にて、ペンテコステ派の説教師であった父マーヴィン・シニアと母アルバータ(旧姓クーパー)のもとに生まれる。出生名はマーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア(Marvin Pentz Gay, Jr.)。地元の教会で聖歌隊に参加したことがシンガーとしての第一歩である。
歌と同時にピアノやドラムといった、いくつかの楽器の演奏技術も習得し音楽の下地を養った。
しかし、音楽に没頭するきっかけは、厳格な父による躾の範囲を越えた精神的虐待であった。これが後の彼の人生にトラウマとして遺ることとなった。
1971年1月、シングル「ホワッツ・ゴーイン・オン」を発表。この曲の成功を受けて、同年5月に同名のアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発表する。
音楽以上に人々に衝撃を与えたのは、このアルバムがベトナム戦争や公害、貧困といった社会問題を取り上げた歌詞と、それに対する苦悩を赤裸々に表現したマーヴィンの歌唱であった。
当時、シングル盤が中心であった黒人音楽の世界に、一つのテーマ、特に社会情勢などを元にしたコンセプト・アルバムを制作することは画期的なことだった。
またこのアルバムの内容についてモータウンは消極的な態度だったが、マーヴィン自身がセルフ・プロデュースという制作体制で望んだことも注目を集め、自分の感じたままのことを干渉されずに作品にまとめ上げるというセルフ・プロデュースの姿勢は、同世代に活躍した黒人ミュージシャンに大きな影響を与えた。マーヴィンの行動に触発されたダニー・ハサウェイやスティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールドなどのアーティストが、より自分の才能で個人的世界を音楽に反映し、意欲的で充実した作品を生み出すことになった。
彼らの音楽は「ニュー・ソウル」と呼ばれ、80年代のアレクサンダー・オニールら次世代の黒人アーティストにも受け継がれていった。
1984年4月1日の12時半頃、自宅で両親の喧嘩を仲裁した際に父と口論になり、激昂した父が拳銃を発砲、至近距離から放たれた2発の弾がそれぞれ胸部と肩に命中し、病院に運ばれる前に死亡した。
その日はマーヴィンの45回目の誕生日の前日だった。
皮肉にも父が使用した拳銃は生前にマーヴィンが護身用にプレゼントしたものであった。
Ain’t No Mountain High Enough (extra HQ)
Marvin Gaye & Tammi Terrell
アメリカのシンガーソングライター、Ashford & Simpsonの出世作品。
数々のアーティストにカバー&サンプリングされている永遠の名曲。
Diana Ross(1970)
Inner Life(1981)
Jocelyn Brown(1984)他
Ain’t No Mountain High Enough(Live At Montreux 1980
Got To Give It Up(1977)
What’s Going On(1971) (Official Video 2019)
歴史的な名作。
作詞・作曲はゲイ、アル・クリーヴランド(モータウンのスタッフ)、レナルド・ベンソン(フォー・トップスのメンバー)の3人。
共作者の1人ベンソンは、サンフランシスコで反戦運動を行っていた若者と警官隊の衝突を目撃し、それを元に歌詞を書き始め、クリーヴランドの協力も得るが、この時点ではタイトルは決まっていなかった。
そしてこの曲を聴いたゲイがタイトルを考え、歌詞を追加し、更にメロディの装飾も加え、1970年6月にレコーディングが開始された
ゲイ自身は後年、当時の心境について、自分の周りの社会情勢とベトナム戦争に出征していた弟からの手紙から強い影響を受けたと語っています。
バック・コーラスは、ゲイ自身のオーバー・ダビングに加えて、当時デトロイト・ライオンズに所属していたアメリカンフットボール選手のメル・ファー、レム・バーニーも参加しています。
Sexual Healing(1982)
Stevie Wonder 🇺🇸
1961年11歳より活動しているアメリカのシンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。ボーカルのほか、ハーモニカ、クラヴィネットなど様々な楽器を演奏するマルチ・インストゥルメンタリスト。
11歳の時にモータウンのTamlaレーベルと契約して以来、現在までモータウン一筋に活動する。30曲以上のU.S.トップ10ヒットを放ち、計22部門でグラミー賞を受賞、最も受賞回数の多い男性ソロ・シンガーである。
1962年末にモータウン・レビューの一員として全米をツアーし、このツアーで廻ったシカゴのリーガル・シアターでの20分ほどの演奏を録音したものが、1963年の5月にアルバム『12歳の天才』としてリリースされ、これがBillboard 200で1位になる大ヒットを記録。ここから同月にシングルカットされた「フィンガーティップス」もBillboard Hot 100で1位の大ヒットとなる。
13歳での1位獲得は21世紀に入ってからも、史上最年少の記録である。
12歳でデビューしたため、ビートルズのメンバーとは年齢が離れているにもかかわらず、キャリアとしては同等の長さを誇る。
Superstition(1972)
Another Star(1976)
Happy Birthday(1980)
Disco・Clubでのバースデーコース時に欠かせないナンバー。
1955 年から1968 年の暗殺までの期間活動していた、公民権運動の最も著名な指導者の 1 人、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日を国民の祝日にするキャンペーンの主要人物の 1 人であり、このシングルを作成してその大義を広めました。
それ以来、この歌は一般的に、特にアフリカ系アメリカ人の間で誕生日に使用される標準となっています。
最終的には、ロナルド・レーガン大統領が、1月の第3月曜日をマーティン・ルーサー・キング・ジュニアを称える連邦法定休日とすることを宣言し、1986年1月20日の月曜日に、全米の人々が第1回の正式なマーティン・ルーサー・キング牧師の日を祝った。これは、アフリカ系米国人を記念する唯一の連邦法定休日である。
いくつかの国でシングルとしてリリースされ、英国でこの曲は自身の最大のヒット曲の 1 つとなり、1981 年にはUKチャートで 2 位になりました。
要因はわかりませんが本国アメリカではシングルリリースはされていない様です。
Isn’t She Lovely(1976)
Part-Time Lover(1985)
Quincy Jones 🇺🇸
アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家、編曲家。
マイケル・ジャクソンと共同プロデュースしたアルバム「Thriller」(1982)にて売上世界一のギネス記録保持者。
1951年に世界的に有名なバークリー音楽大学を卒業後、トランペット・プレーヤーとしてライオネル・ハンプトン楽団に参加。そこでアレンジャーとしての才能を見出され、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンらジャズ界のスターのアレンジを手がけるようになり、1960年より主体となるプロデュース業を開始。
自身名義の楽曲でのダンスミュージックのリリースは少ないですが、現在89歳でも現役で、2022年1月7日にリリースされたザ・ウィークエンドのアルバム「Dawn FM」の制作にもにはジム・キャリーと共に関わっています。
1960年〜1980年主なプロデュース作品。
マイケル・ジャクソン「Of The Wall」(1979)「Thriller」(1982)「Bad」(1987)
Rufas & Chaka khan「Master Jam」(1980)
George Benson「Give Me The Night」(1980)
USA For Africa 「We Are The World」(1985)
The Brothers Johnson「Blast」(1982)
Soul Bossa Nova(1962)
1997年公開、シーリーズ化された程の人気の有った『007』シリーズのパロディ映画『オースティン・パワーズ』テーマ曲として使用され、日本ではCMソングで幾度か使用されるなどして、彼の楽曲の中で日本でも知名度の高い曲。
Ironside (Theme From “Ironside”)
1967年から1975年アメリカNBCネットワークで放送された刑事ドラマの主題歌。
1975年4月5日から1984年5月26日まで、毎週土曜夜に日本テレビ系列局ほかで生放送されたワイドショー「ウイークエンダー」のジングルとしてとても有名な曲。
Stuff Like That(1978)
ft.Nickolas Ashford · Valerie Simpson · Chaka Khan
Ai No Corrida(愛のコリーダ)(1981)
ft. Dune
1980年にUKのミュージシャンChas Jankelがリリースした曲をディスコカバーして、日本でもビッグヒットナンバー。
タイトルは1976年に公開された日本とフランス合作映画、「愛のコリーダ」から採られています。
大島渚監督、藤竜也、松田暎子主演。
昭和史に残る「阿部定事件」を題材に、男女の愛欲の極限を描いた映画。
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